「なあ、君はオバケや幽霊って信じるかい?」
唐突に、野口氏が私に話しかけてきた。
私は盲腸をこじらせ腹膜炎、野口氏は左足複雑骨折にて
入院中のベットの上での事である。
「さあ…。僕は信じていますけど、人はどうなんでしょうね。」
「そうか。実は、俺も信じているんだ。とは言ってもつい最近信じ初めたんだけどな。」
 そう言って野口氏は、ギプスで固められた左足を指差しながら笑った。
「この足は幽霊に折られたんだ。俺は今でもそう思っているんだ。
誰も信じちゃくれないけどな。」
         *   *   *
野口氏は新聞配達をしながら専門学校に通う奨学生だった。
彼の担当地区は他の地区に比べ狭く、配達件数もそれほど多くないのに、仲間の間では人気のない区域だった。
それは、墓地の敷地を横断しないと、配達ができない2軒の家が担当地区の中にあったからだった。
しかし幽霊などを信じていない彼には、最高の地区であり他の仲間の怯えようが信じられなかった。
ましてや、自分がその当事者になろうとは夢にも思っていなかった。


その日は前の夜から激しい雨が降っていた。
いつも通り朝刊の配達に出た彼は、墓地奥の2軒の配達へとやってきた。
まだ真っ暗な早朝。加えて、この豪雨のため、墓地の奥の視界はひどく悪い。
墓地のところどころにある街灯だけを頼りにバイクを走らせねばならなかった…。
2軒目のポストに、ようやく新聞を放り込み彼は大きな溜め息をついた。
いつもなら、往復で2分もあれば済むところを片道に3分以上もかかってしまった。
たいした時間では無いが、こんな雨の日はとにかく1分1秒でも、はやく帰って熱いシャワーでも浴びたい。
- こんなんじゃ、何時に終わるか分かったもんじゃない。 -
彼は来た時よりも速いスピードで、墓地の出口に向かって、バイクを走らせた。
何本目かの街灯にさしかかると、その下に白い大きなごみ袋がおいてある。
− あれ?来るときは何もなかったはずなのに…。 -
好奇心にかられた彼は、その物体を確認すべくバイクで近寄った。
大きなごみ袋に見えたそれは、雨にうたれうずくまっている白い着物の老婆であった。
老婆はこちらに気づく様子も無く、うずくまったまま独りで何かを呟いていた。
- ははぁん。これは、嫁とケンカでもして家を飛び出した、近所のバアさんだな。-
厄介ごとに巻き込まれるのが嫌な彼は、バイクのアクセルをふかし、この場を素早く立ち去ろうとした。
と、その時老婆がこちらを向き、立ち上がった。
そして、バイクの眼の前を、すたすたと横断し始めたのだ。
その着物はこの雨にもかかわらず、全く濡れていない。
それどころか、着物の裾は静かに風になびいている。
老婆は再びしゃがみ込むと小さな墓の雑草をむしりだした。
それは異様な光景だった。
泣き声とも叫び声ともつかない嗚咽を漏らしながら、老婆は草をむしり取っている。
野口氏はバイクにまたがったまま、その場にたちつくしていた。
老婆の背中が突然大きくゆらいだ。ゆらぎはしだいに大きくなり、ゆっくりと眼の前から老婆は姿を消していった。十数秒程の出来事であった。
配達の事などもう彼の頭の中にはなかった。
パニックに陥った彼はバイクを無我夢中に走らせた。
見通しの良いT字路にでた。正面には見慣れた販売店が見える。
- 助かった -
彼が安心したその瞬間!
いままでいなかったはずのトラックが、突然バイクの目の前に現れた。
とっさの事にバイクは避ける間もなく、トラックの下に挟まれ50メートル程アスファルトの上を引き摺られる。
やっと、止まったトラックの下から這い出そうとした時、彼は左足に走る劇痛に耐えきれず気を失った。
次に目を覚ましたのは、この病院のベッドの上だった…。
全治9ケ月。そう告げられた。
        ×   ×   ×
もちろん周囲の人は彼の話を信じなかった。
販売所の人たちは当然のこと、両親まで老婆を見たというだけでなく、それが幽霊だったなどという話など信じてはくれなかった。
野口氏は誰にも話を聞いてもらえず、半ばイライラしながら病床に伏し続けた。
…そして3ケ月後、その隣りに私が入院したのである。
さて野口氏が入院して数日後、彼の先輩で新聞配達の仲間でもあるT氏がお見舞いに訪れた。
T氏は野口氏のもっとも親しい友人で、野口氏は彼にもまた老婆の話を繰り返した。
…当然だが、彼も真に受けた様子はなかった。
「そうか。あの地区は今までみんなで代わりばんこに配達してきたんだが、明日から俺が担当することになったんだ。お前がそこまで言うんだったら、ひとつその老婆がいたという場所を見てきてやろう。」
「頼む、おちおち寝てもいられないんだ」
「配達を終えたら、まっすぐここに来て教えてやるよ。だめだったら電話ででも…。」
「ありがとう。」
野口氏は地図を描き、詳しい説明と老婆の姿も事細かにT氏に伝えた。
翌日、野口氏はT氏からの連絡を今か今かと待ち続けた。
そこへ知らせが…。それは思いもよらぬ内容だった。
T氏が事故!。しかも野口氏と全く同じ場所、同じ時間、
ほとんど同じと言ってよいトラックにバイクごと引きこまれ、野口氏同様左足を粉砕骨折、今この病院に運ばれている途中だという。
野口氏の顔色は変わった。
「…ごめん! おれが変なこと頼んだから!」
 目が覚めたばかりのT氏に野口氏は会いに行った。
「…いやあ、お前のせいじゃないさ。だって老婆なんか見なかったぜ。
…でも不思議だよな。あんな見晴らしのいい道で、雨だって降ってないのに、絶対トラックなんかいなかったはずなのに、
気がついたらトラックが飛びこんできて、気がついたらこの病院なんだぜ。」
「…その気がついたらって話だけど、あの時言わなかったけど…救急車で運ばれてる途中、気を失ってるはずなのに…妙に覚えてるんだ。気を失ってる間ずっと…夢枕にあの老婆が座ってたんだ。」
「…え。」T氏の声も低くなった。
「…実は俺も…老婆かどうかわからないけど…目を覚ますまでずっと、誰かに見られてたような気がする。
夢うつつで目をつむってると、誰かがじっと俺を見てるんだ…。」
         ×   ×   ×
「…必ず何かある。…でもこの足じゃまだまだしばらくは入院生活だし…。」
嘆く野口氏に、むこうみずな中学生でもあった私は、
「じゃあ僕が見てきましょう」と受けあったのだった。
「僕はもうすぐ退院だし、墓地だって家の近くだもの。その上、バイクに乗らないから事故にあうってこともないだろうから…。」
退院した私はとりあえず、一人だと心細いので、同級生数人と連れだって問題の墓地を訪れた。
腕白ざかりの中坊数人が墓地でわぁわぁ言って騒いでいたせいだろうか。
たちまち住職が私たちを見つけて吹っ飛んできた。

顔を真っ赤にした住職に懸命に事情を話しやっと、『遊んでいたわけではない』とわかってはもらったが、
職は問題の老婆には心当たりがないという。
とにかく野口氏の書いた地図を頼りにその場所に連れてってもらうことにした。
「あった!」
老婆が草をむしっていたという場所には、草ぼうぼうの荒れ果てた古い墓があった。
墓には、ひとりの女性の戒名が刻まれていた。
「ああここ…。」
やっと思いだした、という風に住職が話し始めた。
「このお婆さんの家族ね。数年前に九州に引っ越して、誰も墓の面倒をみなくなったんだ。手入れもしてもらえないから、こんな草ぼうぼうなんだな。気の毒に…。しかも、今年が十三回忌ときてる。」

住職は手を合わせ、低い声で読経を唱え始めた。
なるほどわかった、という顔で同級性たちはうなづいていたが、
私は一人だんだん顔が青褪めてくるのを感じていた。
私だけが気づいてしまった事実。
- 4月26日。墓に掘ってある故人の命日 -
それは、まぎれもなく野口氏が老婆を見、事故にあったその日の日付であった。

「へえ〜、これがそのお婆さんの墓かぁ。記念に写真とっとこ。」
こんな場所へ来ると、よせばいいのに写真を撮りたがる者はいるものだ。
(墓地に入った時からシャッターを切り続け、問題の墓も撮影したが、後で現像してみたら…老婆の墓だけ写真が真っ白だったという)

さて野口氏だが、住職がねんごろに読経してくれたせいだろうか、突然9ケ月のはずだった入院が早まり、その後3ケ月くらいで退院できることとなった。
そして再び新聞配達の仕事にもどり、現在まで何ごとも起きていない。