ウィーンのホテルで生まれて初めて恐ろしい体験(「異国の夜」)をして以来、まるで私の中の何かが弾けたかのように、又は或る部分のアンテナが変に開いてしまったかのように数多くの不思議な、時には恐ろしい体験を重ねた。
これは前述のホテルでの経験をした次の年の夏、やはりオーストリアに2ヶ月滞在した時の事だ。
       ※       ※       ※
私は当時ザルツブルグに留学していて同棲中だった一組のカップル、Y氏とK嬢の住んでいた家の空き部屋に厄介になる事になった。
私は当時14歳、子供とは言えこのアツアツの2人の生活に短期間でも入り込んだ訳だからかなり気を使った。
2人も私の面倒をよく見てくれた。
彼らにとって恩師であったM教授からの依頼で僕のお守りを引き受けた訳だから、色々な事で我慢して自分達の生活のペースを犠牲にしてこちらに合わせてくれた。
そのお陰で、この彼らの家での生活は大体の事では満足だった。
しかしたった1つ気に食わない事が有ったのだ。
最初はそんなに気にならない程度のものだったのだが、実はこれが今回お話しする主人公なのだ。
彼らは一匹の黒猫の赤ん坊を飼っていた。
オスだったかメスだったかははっきりとは覚えていない。
赤ん坊、と言っても2、3ヶ月には成っていただろう。
薄く縞が入っている黒い子猫で、ソファーに掛けているクリーム色の毛布を母猫のお乳に見立てて、両手でそれを揉みながらクチュクチュ吸うその姿はとても可愛らしく、時々訪れる彼らの客人達に大いに受けていたし、皆のアイドルであった。
又、この子猫本人(猫)も、その人間からの賞賛をはっきりとした認識を持っていて恍惚とした表情で浴びていたのを私ははっきりと感じていた。
何故か私にはこの子猫の事が気に入らない。
可愛い猫だとは思ったし仕草も愛嬌が有って皆の賞賛も仕方が無いとも思ったのだが。
そしてそんな私の気持ちと視線を感じるのか子猫も全く私にはなつかなかった。

何も私は猫嫌いではない。
家の庭にいつの間にか迷い込んだ子猫の面倒を見ている内に、その友人(猫)も住み着くことになり、それぞれ出産して気が付いたら家の中を猫が6〜7匹走り回っていた事も有った位で、むしろ猫好きの部類だろう。
この黒猫に感じる何ともいえない雰囲気と、まるで全てを見透かして何も知らず自分を褒めちぎる人々を小ばかにしたような表情をしつつも、媚びを売って可愛い仕草で喝采浴びる姿が無性に気に喰わなかった。
更に悪い事にこの猫はまるでわざとかの様に私に対して嫌がらせをしてくるのだ。
一つ一つの事は大した事ではない。
その証拠に詳しくは覚えていないし、よく有る子猫や子犬のやんちゃ盛りの悪戯に過ぎない事であったのかもしれない。
しかし、この黒猫は見事に、今これをされたら一番気に触る事、最も腹が立つ部分をものの見事に突いて来るのだ。
上手くは説明出来ない。
何故なら人は、とても感覚的な最もセンシティブな部分で人や物から受ける態度や印象を感じ取るからだ。
その最も中心に有って、しかも気に触る部分を見事なタイミングと内容を持って何かを遣らかす訳だ。
この一つ一つは些細な可愛らしい黒猫の悪戯は、私の中で大きなフラストレーションとなって蓄積されていったのだ。


そんな或る日だ。
私はY氏とK嬢から、彼等が2人で一緒に外出する何時間かを、この猫と一緒に留守番をする様に仰せつかった。
別に何てことではない。
快く引き受け、TVを観たり本を読んだりしてこの時間を過ごしたのだが、しばらく経った頃変な音がする。

シュルシュル、バリ、バリ!!

この不可解な、しかも悪い予感を伴う音はどうやら玄関を入った直ぐ前の靴置き場から聞こえて来る。
「ア〜ッ!!」
私は絶叫した!!
私のお気に入りだったシューズの紐を見るも無残に引っ掻き且つ噛み倒しながら不敵に笑いながら私を見上げてる黒猫の姿をそこに発見したのだ。
周りには沢山靴が置いてある。
もっと子猫の興味を惹いて良い筈のK嬢の紐状のリボンが沢山付いたハイヒール靴も有った。
それなのにその中からわざわざ私の靴に白羽の矢をぐっさりと立てたのだ。
私の中で何かが音をたてて切れた。
幸いな事に今は私とこの小悪魔だけなのだ。
今だ!!お仕置きだ!!
とばかりに私は次の瞬間にはこの黒猫をはっしと押さえつけていた。
と言ってもそんな大そうな事をした訳ではない。
お尻をパシン!!と一回打っただけなのだが、甘やかされて育てられたこの猫には相当ショックだったのかさっきまでの大胆不敵な笑みも消え、ソファーの下に潜ってこちらを伺っている。
ちくっと小さな後悔が私の胸をかすめたが、この位はコイツにとって良い薬だと思い直しもう一度ソファーの下を見ると神妙な顔をしてじっと丸くなっている。
「良し良し、少しは反省したようだな。」
と思って再びTVを観てる内に2人は帰って来た。
さっきまで神妙な顔でソファーの下で丸まっていた黒猫も、サッと出て来ていつものように、
クネクネ、ゴロゴロと激しく甘えだし、もうさっきのショック等忘れたかのようにお得意のお乳吸いのポーズで喝采を浴びているので、私も「お仕置き」のこと等すっかり忘れていった。
遅めの夕食を食べ、ひとしきり今日一日の彼らの外出中の出来事を面白おかしく話すのを聞いている内に、眠くなってしまった私は早めに自分の部屋に戻りベッドに横たわった。
この部屋は、狭いがとても静かでドアを閉めると隣りでカップルや彼らの客がどんなに騒いでいてもかすかにその声が聞こえて来る程度で、とても寝心地が良かった。
眠りにつくまで、ベッドの右横に有るスタンドの電球だけ点けて読書をするのが当時の私のささやかな楽しみであり習慣でもあったのだが、その日はそうする気力も無いほど眠くてしょうがなかった。
部屋の電気もスタンドの電球も全て消し目を閉じた。


多分完全に眠ってしまうまでほんの1〜2分だったのでは無いだろうか。
暫くは深く眠っていた私は、「カリカリッ」という変な物音で目が覚めた。
気が付くと私はベッドにうつ伏せになって寝ていたのだが、完全に消したはずのスタンドの電球が点いているのに先ず驚いた。
ぼおーっとしていた頭が覚めて来たのと同時にさっきから聞こえてくる変な音が大きくなって来た。

「カリカリッ、ザッザッザッザッ、」


その音はうつ伏せになっている私の直ぐ鼻先の濃紺の絨毯から聞こえて来る。
音のする床に目をやるとナント、あの黒猫が絨毯を両手で引っ掻きながら用足しをする体制に入って居るではないか!!
ちなみに私の部屋にこの猫が入って来たのはこの時が初めてであり、しかもドアを完全に閉めて寝たのだから入って来れる筈が無い。
この部屋に最初から居たのに気が付かないで寝てしまったのでは、と一瞬思ったのだがその考えは直ぐに引っ込めた。
何故なら私が自分の部屋に向かった時は自分の飼い主達に甘え倒すのに、この黒猫は夢中で、カップルの間でゴロゴロしていたのを見たのをハッキリと思い出したからだ。
そんな事を半分パニくりながら考えていると、ヤツは遂に用足しの、あの独特の体制になって

「シャー!!」

という勢いの良い音と共に放尿を始めてしまった。
午後のこの猫の太刀の悪い悪戯が急に蘇えり、事態の不思議さよりも怒りが込み上げて来た。
愛用の靴だけでは飽き足らず、私のこの快適な小さな、束の間ではあるがくつろぎの城までオシッコで汚すとは、ナンテけしからんヤツなのだ!!
私は「コラ〜!!」と叫んだ。
いや、正確には叫けぼうとした。
というのも全く声が出ないのだ。
しかも悪い事に、前の年に初めて経験して以来、度々苦しめられてきた金縛りが突然やって来たのだ。
気持ち良さそうに用足しを続けるこのバカ猫を目では睨みながらも、うつ伏せになったままどんどんベッドの中に沈んで行く自分の体を半ば恐怖にかられながらも必死で動こうともがくのだが、全く体が動かない。
その内に、言い様も無い恐怖だけが私を襲った。
私の背中に重く乗しかかり、もの凄い力でねじ伏せギュウギュウと押し付けてくる。
何かの存在に気が付いた時には、用足しをしているアホな猫などもうどうでも良かった。
しばらくもがく内に何かの拍子で首だけが反対の壁側に傾く事が出来た。
金縛りが解けるキッカケと思いホッと安心したのも束の間だった。
私は今でも忘れる事が出来ない。あの恐ろしい光景を・・・・・。

消した筈の電気スタンドが部屋の白い壁にハッキリと照らし出していたのだ。
うつ伏せの私にのしかかり、尖がった耳と口が耳まで裂けた、
ピンと尻尾を立たせた
大猫の影を!!
それが私をこれでもか、と押し付け止めようとはしない。
私は「アー!!コンチクショウ!!」と叫びながら、これ以上出ない位力を振り絞り、思いっきり両手を伸ばし背筋を仰け反らせ、この化け猫から逃れようと踏ん張った。
と、その瞬間、嘘のように体は軽くなり、悪夢のような体を押さえつけられる苦しみが立ち去った。
慌てて壁を見ると、さっきまで居たドデカイ化け猫と全く同じ大きさで私自身の影が仰け反りながら映っているでは無いか!!
混乱しながらも反対を見ると、部屋にいた筈の黒猫が居ない。
慌てて起き上がり、さっきオソソをしていた筈の場所でしゃがんで見たのだが、何処にもオシッコで塗れている筈の場所が見つからないのだ。
そして何より私にショックを与えたのは、いつも下にうな垂れる様に設置されていた電気スタンドの頭の傘の部分が、まるで苦しむ私と化け猫をハッキリと壁にしっかり映し出す為かのように、真っ直ぐ私の方へ床と90℃の角度でコウコウと私とベッドを照らしていたのを見た事だ。
       ※       ※       ※
猫や狐、狸に騙されたという話しが昔から数多く有るが、この経験をしてからは私も半信半疑ではあるけれども、少しは信じられるようになった。
私は今でも時々思う。「一体あれは何だったのだろうか?」と。


翌日から私のこの黒猫への対応が改善されたのは言うまでも無い。



投稿者:T.Hさん