「霊というのは、なにもひと気のない寂しい場所に限って現れる」
というものではないらしい。

これは、私の部下『N』が東京・渋谷駅前のスクランブル交差点で体験した話だ。
その日も彼は、いつものように営業の外回りから会社に戻る途中であった。
まだ明るい夕方。
Nはその交差点で、向い側で信号待ちをしている人だかりを何気なく見ていた。
ふと、その中の一人の女性に眼が止まった。
年の頃は二十歳位、髪を肩までのばし
真朱なコートを着たN好みの女性だったという。
(私に言わせると、Nに好みなど無いような…。)
『うわーっ。いい女だなあ。あんな彼女が俺にもいたらなあ…。うふふふふっ。』
本能のままNはそう思った。
やがて、信号が赤から青に変わり四方から一斉に人の流れが動き始めた。
彼女も人の流れに乗ってこちらへ歩いて来る。
Nは、わくわくしながら、少しずつ彼女の方に軌道修正をしながら歩いて行った。
あわよくば声を掛けてお茶にでも誘おう、などと思ったらしい。
Nは、歩く速度を早めていった。
彼女もこちらへと向かって来る。わくわく、どきどきの瞬間が迫ってきた…。
が、Nははたと足を止めた。
なにか、彼女の様子が変なのだ…。
彼女の後から、早足で交差点を渡り切ろうとする男がやってくる。
人の流れをぬうようにこちらへと…。
男が彼女の背後に近づいた次の瞬間、
男は彼女の体を突き抜け飛び出して来たのだ。
Nは慌てた………。
そして、彼が呆然としている目の前で、次々と周りの人も彼女を突き抜けていった。
もう、Nの頭の中には声を掛けるなどという選択肢はなく、一刻も早く彼女の脇を通りぬけるこの直線から離れることしか無かった…。

真朱なコートが、Nの脇をまるで、空気が流れるかの様にスーッと通り過ぎていった。
そして、四方からの人の流れがぶつかり、交じり、
真朱のコートはその波の間へと消えていった。
Nは渡り切った交差点を暫くの間、声も出せずに眺めていた。
しかし、再び真夏の夕方に真朱なコートを見る事は無かった…。
         *     *     *
それから半年後。外回りから帰って来たNが興奮しながら私にこう話した。
「課長!課長! 今しがた、例のあの
真朱いコートの女を見かけたんですよ。
参ったよなあ…。今度会ったら、正面から彼女に『ブチュッ』と飛び込んで、
突き抜けてみたいと思っていたのに…。あと、5メートルってところでスーッと消えちゃうんですよ。」
「………!………」
「汚ったねえよなあ。よーし、絶対に今度こそはガンバルぞ!。」


…私は絶句した。


[余談]
Nの話だと、この他にも老紳士や彼の好みでない女性等、数人の霊が
信号待ちしているのを確認済みとの事であり、ひどいときは1週間に1人位の割合ですれ違うそうである。