紀尾井町から四ッ谷に抜ける途中に、その館はあった。
もとは大名家の屋敷跡で、明治以降「華族の屋敷」だったという由緒正しい館であり、近年は某企業の外国からの来賓を接待する迎賓館として使用されていた。
何といっても場所がいい。『ホテルN』の正面玄関前に位置し周囲は古い教会、日本の政治を決定するといわれる料亭などに隣接している。

屋敷は素晴らしい和洋折衷建築の建物(映画でいうと『犬神家の一族』の建物を一部、洋館に作り変えた様な建物)であった。
しかし、かなりの老朽化が進み、さらにその場所に記念ホールを建てる計画も持ち上がり、今回取り壊される事になったのであった。
しかし、その取り壊しの調査段階で、この屋敷が当初思われていたよりずっと古く、文化価値の計り知れない建物である事がわかった。
加えて、現在では幾ら予算を注ぎ込もうと、この建物と同じものは造りようがないということも…。
なにせ20メートルの渡り廊下ひとつ取っても、継目の無い一枚板で造られている程なのである。
もし、今同じものを造ろうとすれば、天然記念物の屋久杉を切らねばならない。
…そんな事はできる訳がない。

屋台骨の組み合せにしても、とうに忘れられた技術がふんだんに使われており、今の宮大工ではほとんど解らない。
あれやこれやで、これは壊してしまうには惜しいので、渋谷にある社の土地に手を加え、移築しようという事になった。
リニューアルして再建築し、社長の公邸を兼ね迎賓館として使うのだ。
…そこで一昨年初冬、私の会社にこの建物の24時間の完全警備が委託された。
 先にも書いたようにこの建物は『ホテルN』の真正面である。
各国の要人が泊まるのだから、払われる注意は並大抵のものではなかった。
正面の空き家は狙撃手のいい隠れ家である。
事実、アメリカの大統領が来日した時など、ホテル側に面した窓がわずか15センチ開いただけで警察と『ホテルN』から確認の電話がかかってきた程である。
それにこれから寒くなる季節柄、木造の家は火災がこわかった。
木材の資産価値だけで推定十数億、しかも廊下の一枚板のように再現不可能な材料もある。
警備会社の使命は重かった。

…ところが。
警備を命じられた者たちが、次々と会社を辞めてしまうのだ。実際3日と持たない。
理由を聞いてもはっきりと言わない。
ただ、『この仕事は続けられないので辞めます。』と言うのだ。
はっきり言って警備会社は人の出入りの激しい職種である。支店間の移動もまた激しい。
ほんの一週間、海外旅行に行って戻って来ると、おみやげを頼んだ人ばかりか、部下から上司から総入替えしており、知った顔が一つもなかった等という笑えない話もある。
それはともかく、 実際、3日ともたないというのは異常な話だ。
しかも誰も理由を言わないとは。
…だが私にはピンと来くる事があった。
それは私自身のある経験から来るものだった。
私は立場上、警備に入る前、問題の建物を視察・打ち合せをした。
先方の会社の人に連れられて、全ての部屋をのぞくのに約40分以上かかったのを覚えている。
建物は明治時代の屋敷を核に増築に増築を重ね、複雑怪奇な構造になっていた。
本来ならあるはずのないところに小部屋があり、迷路じみた回廊が続き、
段差のある棟を繋げるため小さな階段がそこここにある。
ちゃんとわかっている人でないと到底住み得ないような…俗にいうなら幽霊の棲みつきやすい間取りの屋敷だった。

私自身は霊感がある人間ではない。人のオーラが見えるでも、背後霊が見えるでもない。
しかし、そんな私でもあそこでは誰かに見られている、そんな異様な感じが常にしたのだった。
異様な視線を感じるのは屋敷自体ではなく、屋敷の奥にある昭和初期に建てられたという土蔵の前。…そして『ホテルN』とは反対の角にある従業員宿舎の中だった。
入った瞬間気分が悪くなった。
空気が悪い、とでも表現したらいいのか。
何処からか感じる視線に不快感を感じ、脂汗が浮かんでくる。
何がどうとは言えなかったが、『ここはよくないな。』と思ったものだ。
身に覚えのある私は、誰も何も言わなくてもだいたいの事情を推察した。
推測が正しければこの先何人派遣しても同じことである。とすれば方法は一つしかなかった。
強力な霊感を持ち、なおかつ幽霊など非科学的なものは信じない、
という信念を持つ男をこの屋敷に送りこんだのである。
島谷警備士。
私は彼に何も話さなかった。
彼にとってはこの仕事も、たくさんある普通の警備の一つに過ぎなかったはずである。
- 結果…。数日たっても、彼は何の異常も訴えてこなかった -

「…どうなっているものか。」
折りしも師走…。みぞれまじりの風が冷たい日であった。
屋敷はすでに解体の準備を終わり、業者の人たちは引きあげていた。
そんな屋敷に、ひとり警備に残っている島谷氏は、電気ストーブしか無い部屋でこの寒い中がんばっているはずである。
…しかし電気ストーブではそんなに部屋も体も暖まらないものだ。
私は現状視察を兼ね、石油ファンヒーターを差し入れに彼を訪れた。
「やあ、調子はどうだい。」
「あ、課長。大丈夫ですよ。こちらは何も異常ありません。」
「そ…そう…。」
『大丈夫、何も異常はない』と言われてしまうと返す言葉がない。
私は彼の案内で人気の失せた屋敷内を巡回した。
「…いや、君には話さなかったんだが、君の前の人が何人も辞めてしまってね。
…何かあるんじゃないかって心配してたんだ。」
「へえー、何があったんでしょうね。」
「…なかった? 何か出るとか…見たとか…。」
「何も。そんなの気のせいですって。強いて言うなら、疲労のせいで変な夢を見るくらいですね。」
「…夢? どんな?」
 彼は何気なく首をかしげた。思いだすのに数秒かかった。
「部屋で寝てるとですね。天井に女性が浮かんでるんです。白い着物を着た、きれいな人ですよ。」
「なあ。…それって、夢じゃ無いんじゃ…?」
「夢ですよ。 だって人間が空中に浮かんでるわけないじゃないですか。
髪だって下に垂れてこないで、僕と全く平行に浮かんでるんですよ。」
と、彼は笑う。 それで?とおそるおそる私は続きを促す。
「じっと見てたら、すうっと下がってきて僕の首を締めるっていうのか、胸倉をつかんでバタバタするっていうのか、まあそんな内容の夢です。」
「…それ、出てるってば…」
「かなり、すごい夢でしょう。」
「……。」


私たちはいつしか広間奥の階段前に来ていた。 ここもただならぬ気配が、
いつも誰かが見ているという気配が常に満ちている。
「…おかしいな。今誰かいるような気配がしたぞ。」
「課長、怖がりですね。 気のせいですよ。 僕もここに来ると時々カン違いするんです。」
「どんな。」
「さっきの夢に出てきた女性がね、そこに立ってるような気がして。疲れてるんでしょうねぇ…。 不思議なことにいつもここなんですけどね。」
「…それ、いつも?」
「いつもって訳では…。 そうそう…いつも夜中だ。 3時頃かなあ。一番疲れてる時間ですよ。」
「……。」


 一周した私たちは警備のための部屋に戻った。
「…じゃあ、良ければ引き続き年末年始の警備の方もよろしく。」
「大丈夫! まかせてください。」
 その私たちの頭上を、何かがゆっくりと歩いていった。

- ミシッ…。ミシッ…。ミシッ…。 -

足音は部屋の天井を対角線に横切っていった。 その歩幅70センチほどか…。
私はつぶやいた。
「…こんな年末なのにまだ宮大工さん働いてるのか。 大変だよなあ。」
「あはははっ。 課長、もう年末ですよ。 私たちしかいる訳無いじゃないですか。」
「え! だって今誰か上を…。」
「ネズミじゃないですか?」
「だって、ミシッ…ミシッ…って人間位の歩幅で…。」
「古い建物だからよくきしむんです。 気のせいですよ。 よくあることなんです。
だって課長、第一この上は2階がないんですよ。」
私は思わず沈黙した。
そう、建物のこの箇所は上がないはずだ。
「じゃ…じゃあファンヒーターを置いてくから。寒いけどがんばってくれよ。多分、また来るからさぁ。」
本当に寒い日だった。誰もいない建物の中を寒風が吹き抜けていく。
建物の中を…中を…?…………………………!!
玄関にでた私はふと、つぶやいた。
「…外の方があったかい。」
外は叩きつける様にみぞれが降っていた。なのに、建物の中よりずっと暖かく感じるのだ。
だいたいどうして建物の中から外に向かって風が吹くのか!
「…そうなんですよねえ。不思議なんです…。しかも、僕のいる部屋が一番寒いんですよ。石油ファンヒーターたいても無駄かも…。」
彼は首をひねり続けた。
そして、その後も彼は不満一つもらすことなく、警備の任につき続けたのである。
         *   *   *
そして季節はいつしか夏になっていた。
移築すべき建物は全て解体され、渋谷の方の移築先に移送されていた。
重要な資材もなくなり、警備は昼間の工事中のみに限定され、島谷警備士も他の現場へと移っていった。
残るは不要な部分の取り壊しのみである。その中に、例の古い土蔵も含まれていた。
その日は、朝早くから解体業者が敷地に入り、わいわいと騒ぎたてていた。
最初に土蔵の扉を開けたのは、出稼ぎに来ていた中年のイラン人だった。
「…?!」
彼は暗い土蔵の中に、白い着物を来た女性を見た。そしてその周囲にうずくまり、こちらをジッと見る十数人の子供たちを…。
女性は立ちあがり、ものすごい剣幕でイラン人に指をつきつけまくしたてた。
「…ア・ア、チョット待ッテ。」
彼は、あまり日本語がよく話す事ができなかった。加えて、相手はまくしたてる様な早口である。
彼女が何を言っているのか、彼には全くわからなかった。
「チョット待ッテネ。監督サン呼ンデ来ルカラ。」
扉を閉め、くるっと振り返ったところに監督は立っていた。もう建物がなくなった見通しのいいサラ地だ。
どこに誰がいたって見える距離である。
「監督サン、中ニ女ノ人イテ、何カ言ッテルヨ、聞イテアゲテ。」
「女の人?」
監督は首をかしげた。なぜなら彼はそれまでのいきさつを全く知らなかった。
『女性がいるなんて変な事を言うな。』と思いながら、小走りで彼の側に向かうと、
一緒に土蔵の扉を開けた。

土蔵の中には案の定、誰もいなかった。
「本当イタヨ。白イ服キタ女ノ人ダッタヨ。芸者サンミタイナ服ダッタヨ。
アト子供タチ、イッパイ、イッパイ…。」
監督は現実家だったが、さすがにこの話にはくるものを感じた。
全作業員を集め今の話をただしたところ、同じように「白い着物を着た女性を見た」
と言う者が、十数人も出てしまったのである。
それからが大騒ぎだった。
神社から神主が呼ばれ、入念な御払いが行われた。


2日後、あらためて土蔵を解体したところガレキの下から、
防空壕なのか座敷牢なのか解らない謎の地下空間が出てきてしまったのである。
…また大騒ぎになった。
その空間は、屋敷の膨大な記録に、一字も記載がなかったのである。
いつ、何のために造られたのか全くわからない。さらにそれだけでは済まなかった。
その数日後、屋敷の外塀が、十数メートルにわたっていきなり道路側に倒れたのである。
厚さ30センチ、本来なら地震でも倒れるはずのない塀である(関東大震災をも乗り切った塀である)。
幸い、すんでのところで死人こそ出なかったものの、路上の自転車、バイクはペッチャンコ。
あまりの事に翌日から作業員が出て来なくなる始末だった。再び御払いが行われた。
有難いことに、その後は何事も起こることなく、無事に建物もすべて解体され、
紀尾井町における我が社の仕事は終わった。
         *   *   *
それから1年後。
会社の人間も一通り入れ替り、屋敷での怪異を覚えているのは今や私一人となっていた。
紀尾井町での出来事も、日々の業務に追われ忘れかけていた、そんな私の耳に、警備現場の人間との奇妙なやりとりが聞こえてきた。
最近入社した新人が、何気なくこんな事を話していた。
「…建物を移築するとかで、古い材木が積んであるんですが、その資材置き場を夜間巡回していると、たまに、変な人が来るので困ってるんです。」
「移築? 渋谷?」
私の耳はそばだった。
「夜中に白い服着た女の人が歩き回ってるんです。近所の人なんですかねえ…。
注意しようと思ってそっちいくと、いなくなってしまって…。どこの人なんでしょう?。こういう場合って、警察を呼んだ方が良いのでしょうか…?。」
「…その資材置き場って〇〇〇社の?。」
「そうです。社長の公邸建てる現場です。」
「…!」
そう…彼女は材木について渋谷に移っていたのだ!今も、今夜もさまよっているのか。



 私はしばらく震えが止まらなかった。